敬語を適切に使うためには、敬語の種類やその仕組み(各種の敬語はどのような形をしていて、どのように働くのか、使う場合の留意点はどのようなことか、など)についての体系的な知識が必要である。本章では、それらの要点を「第1 敬語の種類と働き」及び「第2 敬語の形」に分けて述べる。
これらの5種類は、従来の「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」の3種類とは、以下のように対応する。
5種類 | 3種類 | |
---|---|---|
尊敬語 | 「いらっしゃる・おっしゃる」型 | 尊敬語 |
謙譲語Ⅰ | 「伺う・申し上げる」型 | 謙譲語 |
謙譲語Ⅱ(丁重語) | 「参る・申す」型 | 謙譲語 |
丁寧語 | 「です・ます」型 | 丁寧語 |
美化語 | 「お酒・お料理」型 | 丁寧語 |
敬語の仕組みは、従来の3種類によっても理解できるが、敬語の働きと適切な使い方をより深く理解するためには、更に詳しくとらえ直す必要がある。そのために、ここでは、5種類に分けて解説するものである。
以下、5種類の敬語の働きについて解説する(特に重要な部分は太字で示す)。
相手側又は第三者の行為・ものごと・状態などについて、その人物を立てて述べるもの。
<該当語例>「先生は来週海外へいらっしゃるんでしたね。」と述べる場合、「先生は来週海外へ行くんでしたね。」と同じ内容であるが、「行く」の代わりに「いらっしゃる」を使うことで、「先生」を立てる述べ方になる。このように、「いらっしゃる」は<行為者>に対する敬語として働く。この種の敬語は、一般に「尊敬語」と呼ばれている。「先生のお導き」なども、<行為者>を立てる尊敬語である。
(注) 「いらっしゃる」は、「行く」のほかに「来る」「いる」の尊敬語としても使われる。
「お名前」「お忙しい」のように、行為ではなく、ものごとや状態を表す語にも、尊敬語と呼ばれるものがある。例えば「先生のお名前」は「名前」の<所有者>である「先生」を、また「先生はお忙しいようですね。」は「忙しい」状態にある「先生」を、それぞれ立てることになる。
尊敬語を使う心理的な動機としては、「その人物を心から敬って述べる場合」、「その状況でその人物を尊重する述べ方を選ぶ場合」、「その人物に一定の距離を置いて述べようとする場合」など、様々な場合があるが、いずれにしても、尊敬語を使う以上、その人物を言葉の上で高く位置付けて述べることになる。以上のような様々な場合を通じて、「言葉の上で高く位置付けて述べる」という共通の特徴をとらえる表現として、ここでは「立てる」を用いることにする。ここでの「立てる」は、このような意味で理解されたい。
「先生は来週海外へいらっしゃるんでしたね。」(あるいは「先生のお名前」など)と述べる場合には、次のような各場合がある。
尊敬語を使うことによって立てられる人物(上記の例の「先生」)は、①の場合は「話や文章の相手」、②の場合は「相手の側の人物」に当たる(①②の場合をまとめて「相手側」と呼んでおく)。また③の場合、立てられる人物(=「先生」)は、「第三者」に当たる。以上のように、尊敬語は「相手側又は第三者」の行為・ものごと・状態などについての敬語である。
なお、立てられる人物(上記の例なら「先生」)が状況や文脈から明らかな場合には、それを言葉で表現せずに、ただ「来週海外へいらっしゃるんでしたね。」「お名前」などと述べる場合もある。
「くださる」の場合は、行為者を立てるという一般の尊敬語の働きに加えて、「その行為者から恩恵が与えられる」という意味も併せて表す。例えば、「先生が指導してくださる。」「先生が御指導くださる。」は、それ(=「先生が指導すること」)が有り難いことである、という表現の仕方になる。
自分側から相手側又は第三者に向かう行為・ものごとなどについて、その向かう先の人物を立てて述べるもの。
<該当語例>「先生のところに伺いたいんですが…。」と述べる場合、「先生のところに行きたいんですが(先生のところを訪ねたいんですが)…。」と同じ内容であるが、「行く(訪ねる)」の代わりに「伺う」を使うことで、「先生」を立てる述べ方になる。このように、「伺う」は <向かう先> に対する敬語として働く。この種の敬語は、一般に「謙譲語」と呼ばれてきたが、ここでは3の「謙譲語Ⅱ」と区別して、特に「謙譲語Ⅰ」と呼ぶこととする。
(注) 「伺う」は、「行く(訪ねる)」のほかに「聞く」「尋ねる」の謙譲語Ⅰとしても使われる。
例えば「先生にお届けする」「先生を御案内する」などの「先生」は<向かう先>であるが、このほか「先生の荷物を持つ」「先生のために皿に料理を取る」という意味で「お持ちする」「お取りする」と述べるような場合の「先生」についても、ここでいう<向かう先>である。(例:「あ、先生、そのかばん、私がお持ちします。」「先生、お料理、お取りしましょう。」)
また、「先生からお借りする」の場合は、「先生」は、物の移動の向きについて見れば<向かう先>ではなく、むしろ「出どころ」であるが、「借りる」側からは、「先生」が<向かう先>だと見ることができる。「先生からいただく」「先生に指導していただく」の場合の「先生」も、「物」や「指導する」という行為について見れば、「出どころ」や「行為者」ではあるが、「もらう」「指導を受ける」という側から見れば、その<向かう先>である。その意味で、これらも謙譲語Ⅰであるということになる。上で述べた<向かう先>とは、このような意味である。
(注) ただし、「先生からのお手紙」「先生からの御説明」の場合は、<行為者> を立てる尊敬語である。このように、同じ形で、尊敬語としても謙譲語Ⅰとしても使われるものがある。
謙譲語Ⅰを使う心理的な動機としては、「<向かう先>の人物を心から敬うとともに自分側をへりくだって述べる場合」、「その状況で<向かう先>の人物を尊重する述べ方を選ぶ場合」、「<向かう先>の人物に一定の距離を置いて述べようとする場合」など、様々な場合があるが、いずれにしても、謙譲語Ⅰを使う以上、<向かう先>の人物を言葉の上で高く位置付けて述べることになる。以上のような様々な場合を通じて、「言葉の上で高く位置付けて述べる」という共通の特徴をとらえる表現として、ここでは「立てる」を用いることにする。
これは、先の尊敬語における「立てる」と同じ性質のものである。ただ、尊敬語と謙譲語Ⅰとでは、<行為者>などを立てるのか、<向かう先>を立てるのかという点で、違いがあるわけである。
「先生のところに伺いたいんですが…。」(あるいは「先生への御説明」)などと述べる場合には、次のような各場合がある。
謙譲語Ⅰを使うことによって立てられる<向かう先>の人物(上記の例の「先生」)は、①の場合は「話や文章の相手」、②の場合は「相手の側の人物」に当たる(①②の場合をまとめて「相手側」と呼ぶ)。また③の場合、立てられる<向かう先>の人物(=「先生」)は、「第三者」に当たる。以上のように、謙譲語Ⅰは、「相手側又は第三者」を<向かう先>とする行為・ものごとなどについての敬語である。
なお、立てられる人物(上記の例なら「先生」)が状況や文脈から明らかな場合には、それを言葉で表現せずに、ただ「伺いたいんですが…。」「御説明」「お手紙」などと述べる場合もある。
謙譲語Ⅰの行為者については、次の①又は②のような使い方が一般的である。
このように、謙譲語Ⅰは、一般的には、「自分側」(①②の場合をまとめてこう呼んでおく。)から「相手側又は第三者」に向かう行為について使う。
ただし、謙譲語Ⅰは、このほか、次のように使う場合もある。
③④は、「自分側」からの行為ではない点は①②と異なるが、<向かう先>の「先生」を立てる働きを果たしている点は①②と同様である。また、③④では、行為者の「田中君」「鈴木君」は、<向かう先>の「先生」に比べれば、この文脈では「立てなくても失礼に当たらない人物」ととらえられている(例えば、③④の文を述べている人と「田中君」や「鈴木君」が、共に「先生」の指導を受けた間柄である場合など)。
このように、相手側や第三者の行為であっても、その行為の<向かう先>が「立てるべき人物」であって、かつ行為者が<向かう先>に比べれば「立てなくても失礼に当たらない人物」である、という条件を満たす場合に限っては、謙譲語Ⅰを使うことができる。
自分側の行為・ものごとなどを、話や文章の相手に対して丁重に述べるもの。
<該当語例>
「明日から海外へ参ります。」と述べる場合、「明日から海外へ行きます。」と同じ内容であるが、「行く」の代わりに「参る」を使うことで、自分の行為を、話や文章の相手に対して改まった述べ方で述べることになり、これが、丁重さをもたらすことになる。このように、「参る」は<相手>に対する敬語として働く。
この種の敬語は、一般に「謙譲語」と呼ばれてきたが、ここでは、2の「謙譲語Ⅰ」と区別して、特に「謙譲語Ⅱ(丁重語)」と呼ぶこととする。
(注) 「参る」は、「行く」のほかに「来る」の謙譲語Ⅱとしても使われる。
「拙著」「小社」など、名詞についても、自分に関することを控え目に表す語があり、これらは、名詞の謙譲語Ⅱだと位置付けることができる。ただし、主に書き言葉で使われる。
謙譲語Ⅱのうち、行為を表すもの(動詞)は、次の①又は②のように使うのが典型的な使い方である。
このように、謙譲語Ⅱは、基本的には、「自分側」(①②の場合をまとめてこう呼んでおく。)の行為に使う。
ただし、謙譲語Ⅱは、このほか、次のように使う場合もある。
③では、「自分側」の行為ではない点は、①②と異なるが、「話や文章の相手に対して丁重に述べる」という働きを果たしている点は、①②と同様である。③の初めの例の「子供たち」は、この文脈では「立てなくても失礼に当たらない人物」ととらえられている。このように、立てなくても失礼に当たらない第三者や事物についても、謙譲語Ⅱを使うことができる。
なお、謙譲語Ⅱは、基本的には「自分側」の行為に使うものなので、「相手側」の行為や「立てるべき人物」の行為について、「(あなたは)どちらから参りましたか。」
「先生は来週海外へ参ります。」などと使うのは、不適切である。
2の謙譲語Ⅰと3の謙譲語Ⅱは、類似している点もあるため、どちらも「謙譲語」と呼ばれてきたが、謙譲語Ⅰは<向かう先>(上述のように、相手側である場合も、第三者である場合もある)に対する敬語、謙譲語Ⅱは<相手>に対する敬語であり、性質が異なる。この点に関係して、次のような違いもある。
謙譲語Ⅰの場合、例えば「先生のところに伺います。」とは言えるが、「弟のところに伺います。」は不自然である。これは、初めの例では<向かう先>である「先生」が「立てるのにふさわしい」対象となるのに対し、後の例の「弟」は「立てるのにふさわしい」対象とはならないためである。謙譲語Ⅰは、<向かう先> に対する敬語であるため、このように立てるのにふさわしい<向かう先>がある場合に限って使う。
一方、謙譲語Ⅱの場合は、例えば「先生のところに参ります。」とも言えるし、「弟のところに参ります。」とも言える。謙譲語Ⅱは、<相手>に対する敬語であるため、このように、立てるのにふさわしい<向かう先>があってもなくても使うことができるのである。
ふさわしい<向かう先>がある場合は、謙譲語Ⅰを使って「先生のところに伺います。」のように述べることも、謙譲語Ⅱを使って「先生のところに参ります。」のように述べることもできる。
ただし、前者が「先生」に対する敬語であるのに対して、後者は話や文章の<相手>に対する敬語であることに注意したい。つまり、「先生」以外の人に対してこれらの文を述べる場合、「先生のところに参ります。」の方は、「先生」ではなく、<相手>に対する敬語として働くことになる。
なお、「先生」に対してこれらの文を述べる場合には、「先生」=<相手>という関係が成立しているので、結果として、どちらの文も同じように働くことになる。このように、行為の<向かう先>と、話や文章の<相手>が一致する場合に限っては謙譲語Ⅰと謙譲語Ⅱはどちらも事実上同じように使うことができる。謙譲語Ⅰと謙譲語Ⅱとが似ているように映るのはこのためであるが、<向かう先>と<相手>とが一致しない場合には、謙譲語Ⅰと謙譲語Ⅱの働きの違いに留意して使う必要がある。
謙譲語Ⅰは、「ます」を伴わずに使うこともできる。例えば、「明日先生のところに伺う(よ)。」などと、「先生」以外の人に述べることがある。
一方、謙譲語Ⅱは、一般に「ます」を伴って使う。例えば、「明日先生のところに参る(よ)。」などと述べるのは不自然である。
以上、【ア-1】【ア-2】【ア-3】のような謙譲語Ⅰと謙譲語Ⅱの違いは、要するに、謙譲語Ⅰは<向かう先>(相手側又は第三者)に対する敬語、謙譲語Ⅱは<相手>に対する敬語であるということに基づくものである。
このような違いがあるため、ここでは両者を区別して、一方を「謙譲語Ⅰ」、他方を「謙譲語Ⅱ」と呼ぶことにしたものである。
謙譲語Ⅰと謙譲語Ⅱとは、上述のように異なる種類の敬語であるが、その一方で、両方の性質を併せ持つ敬語として「お(ご)…いたす」がある。
「駅で先生をお待ちいたします。」と述べる場合、「駅で先生を待ちます。」と同じ内容であるが、「待つ」の代わりに「お待ちいたす」が使われている。これは、「お待ちする」の「する」を更に「いたす」に代えたものであり、「お待ちする」(謙譲語Ⅰ)と「いたす」(謙譲語Ⅱ)の両方が使われていることになる。この場合、「お待ちする」の働きにより、「待つ」の<向かう先>である「先生」を立てるとともに、「いたす」の働きにより、話や文章の<相手>(「先生」である場合も、他の人物である場合もある。)に対して丁重に述べることにもなる。
つまり、「お(ご)…いたす」は、「自分側から相手側又は第三者に向かう行為について、その向かう先の人物を立てるとともに、話や文章の相手に対して丁重に述べる」という働きを持つ、「謙譲語Ⅰ」兼「謙譲語Ⅱ」である。
話や文章の相手に対して丁寧に述べるもの。
<該当語例>「次は来月十日です。」は「次は来月十日だ。」と、また「6時に起きます。」は「6時に起きる。」と、それぞれ同じ内容であるが、「です」「ます」を文末に付け加えることで、話や文章の相手に対して丁寧さを添えて述べることになる。このように、「です」「ます」は<相手>に対する敬語として働く。この種の敬語は、一般に「丁寧語」と呼ばれている。
なお、これらと同じタイプで、更に丁寧さの度合いが高い敬語として「(で)ございます」がある。
3の「謙譲語Ⅱ」も話や文章の相手に対する敬語として働くので、この意味では、4の「丁寧語」と近い面を持つ。違いは、謙譲語Ⅱは基本的には「自分側」のことを述べる場合に使い、特に「相手側」や「立てるべき人物」の行為については使えないのに対し(3の【解説3】参照。)、丁寧語は「自分側」のことに限らず、広く様々な内容を述べるのに使えることである。また謙譲語Ⅱは、丁寧語「です」「ます」よりも改まった丁重な表現である(丁寧語のうち「(で)ございます」は、謙譲語Ⅱと同程度に丁重な表現である)。
ものごとを、美化して述べるもの。
<該当語例>例えば、「お酒は百薬の長なんだよ。」などと述べる場合の「お酒」は、1の尊敬語である「お導き」「お名前」等とは違って、<行為者>や<所有者>を立てるものではない。また、2の謙譲語Ⅰである「(立てるべき人物への)お手紙」等とも違って、<向かう先>を立てるものでもない。さらに、3、4の謙譲語Ⅱや丁寧語とも違って、<相手>に丁重に、あるいは丁寧に述べているということでもない。
すなわち、上記の例文に用いられているような「お酒」は、「酒」という言い方と比較して、「ものごとを、美化して述べている」のだと見られる。
この「お酒」のような言い方は、この意味で、前述の1~4で述べた狭い意味での敬語とは、性質の異なるものである。だが、<行為者><向かう先><相手>などに配慮して述べるときには、このような言い方が表れやすくなる。例えば、「先生は酒を召し上がりますか。」や「先生、酒をお注ぎしましょう。」の代わりに、「先生はおつ酒を召し上がりますか。」や「先生、お酒をお注ぎしましょう。」と述べる方がふさわしい。こうした点から、広い意味では、敬語と位置付けることができるものである。この種の語は、一般に「美化語」と呼ばれている。
敬語のうち尊敬語と謙譲語Ⅰは、先に見たように、ある人物を「立てて」述べる敬語である。すなわち、尊敬語は「相手側又は第三者の行為・ものごと・状態などについて、その人物を立てて述べる」敬語であり、謙譲語Ⅰは「相手側又は第三者に向かう行為・ものごとなどについて、その向かう先を立てて述べる」敬語である。
実際の場面で尊敬語や謙譲語Ⅰを使って人物を「立てて」述べようとする場合に留意すべき主な点は、次のとおりである。
(1)の「自分側」には、「自分」だけではなく、例えば「自分の家族」のように、「自分にとって「ウチ」と認識すべき人物」も含めてとらえるものとする。
(1)は、例えば、他人と話す場合に「父は来週海外へいらっしゃいます。」などと述べるのは適切ではないということである。尊敬語「いらっしゃる」によって、自分側の「父」を立てることになるからである。「明日父のところに伺います。」と述べる場合も、謙譲語Ⅰの「伺う」が<向かう先>を立てる働きを持つため、やはり自分側の「父」を立てることになり、これも不適切な使い方である。
このように、「自分側は立てない」というのが、尊敬語や謙譲語Ⅰを使う場合の基本的な原則である。自分側のことについて述べる場合は、自分側を「立てる」結果になるような敬語は使わず、上記の例で言えば、それぞれ「父は来週海外へ行きます。」「明日父のところに行きます。」のように述べるのが一般的な述べ方である。
ただし、自分側のことを述べるために使うふさわしい敬語(謙譲語Ⅱ)が別にある場合には、これを使うと、相手に対する丁重な述べ方になる。上記の例で言えば、「父は来週海外へ参ります。」「明日父のところに参ります。」が、それに当たる述べ方である。
(2)の「相手側」には、「相手」だけではなく、例えば「相手の家族」のように、「相手にとって「ウチ」と認識される人物」も含めてとらえるものとする。
(2)は、例えば「先生」やその家族と話す場合に、「先生は来週海外にいらっしゃるんでしたね。」あるいは「先生のところに伺いたいんですが…。」などと述べれば、相手側を立てることになり、このような使い方が尊敬語や謙譲語Ⅰの典型的な使い方である、ということである。初めの例は、尊敬語によって<行為者>である「先生」を立てる例、後の例は、謙譲語Ⅰによって<向かう先>である「先生」を立てる例である。
人物や状況によっては、相手側を立てずに述べてもよい場合や、立てずに述べる方が親しみを出すことができるような場合ももちろんあるが、立てようとする場合の手段として、尊敬語や謙譲語Ⅰがあるわけである。このように相手側を立てて述べるのが、尊敬語や謙譲語Ⅰの最も典型的な使い方である。
例えば、「先生」やその家族と話すわけではなく、友人と話す場合にも、「先生は来週海外にいらっしゃるんでしたね。」「先生のところに伺いたいんですが…。」などと、「先生」を立てて述べることがある。この場合の「先生」は、「相手側」ではなく「第三者」であるが、その人物や場面などを総合的に判断して「立てる方がふさわしい」ととらえられているわけである。
(3)アは、このような場合を述べたものである。尊敬語や謙譲語Ⅰは、このように第三者を立てる場合にも使われる。
上述の例の友人が、例えば、同じ「先生」の下で、一緒に学んだことがある友人なら、一般に、上述の例のように「先生」を立てた述べ方を聞いても、違和感を持たないであろう。しかし、例えば、その友人の全く知らない人物で、自分だけが知っている人物のことを話題にする場合に、「昨日、高校の時の先輩が遊びにいらっしゃったきのうんですけどね、…。」などと立てて述べるとすると、聞いた友人は、自分の全く知らない人物を立てられることになり、ある種の違和感を持つ可能性がある。
このように、自分から見れば、立てるのがふさわしいように見えても、「相手から見れば、立てる対象とは認識されないだろう」と思われる第三者については、立てずに、この例で言えば、「昨日、高校の時の先輩が遊びに来たんですけどね、…。」と述べる方が適切である。(3)イは、このことを述べたものである。
(注) なお、例えば、上司のことを、更にその上司に述べる(例えば、課員が課長のことを部長に述べる)ような場合には、次の①②の二通りの考え方ができる。①は、上記(3)イに従った考え方であり、②は、これとはまた別の原理に従った考え方である。
こうした点も含めて、(3)イをどこまで適用するかについては、個人差もあるようである。
敬語の形について留意すべき主な点は、次のとおりである。
「行く→いらっしゃる」のように特定の語形(特定形)による場合と、「お(ご)…になる」(例、読む→お読みになる、利用する→御利用になる)のように広くいろいろな語に適用できる一般的な語形(一般形)を使う場合とがある。
(注) 「…なさる」の形は、サ変動詞(「…する」の形をした動詞)についてのみ、その「する」を「なさる」に代えて作ることができる。
(注) 「ご…なさる」の形は、サ変動詞(「…する」の形をした動詞)についてのみ、「する」を「なさる」に代えるとともに「ご」を付けて作ることができる。ただし、「ご」がなじまない語については、作ることができない(後掲の【補足ア:「お(ご)…になる」を作る上での留意点】に準じる留意が必要である)。
(注1) 「だ」を丁寧語「です」に変えた「お(ご)…です」の形で用いることが多い。
(注2) 「お(ご)…だ」「お(ご)…です」を作る上では、後掲の【補足ア:「お(ご)…になる」を作る上での留意点】に準じる留意が必要である。
(注3) 「御存じだ(御存じです)」は、「知っている」の尊敬語である。
(注) 「お(ご)…くださる」を作る上では、後掲の【補足ア:「お(ご)…になる」を作る上での留意点】に準じる留意が必要である。
(注) 「お(ご)…する」は後述のように謙譲語Ⅰの形であり、これを尊敬語として使うのは適切ではない。(例えば、「相手が持っていくか」ということを尋ねる場合、「お持ちしますか。」と言うのは不適切で、「お持ちになりますか。」と言うのが適切である。)
(注) 「ご…される」(「御説明される」「御利用される」など)は、本来、尊敬語の適切な形ではないとされている。
「お(ご)…になる」を作る上で留意すべき点は次のとおりである。
一般に、動詞が和語の場合は「読む→お読みになる」「出掛ける→お出掛けになる」のように「お…になる」となり、漢語サ変動詞の場合は「利用する→御利用になる」「出席する→御出席になる」のように「ご…になる」となる。
次の場合は、変則的な作り方となる。
慣習上、「お(ご)」と組み合わせることがなじまず、「お(ご)…になる」の形が作れない動詞もあるので、注意を要する。
例:×お死にになる(→お亡くなりになる、亡くなられる)、×御失敗になる
動詞に可能の意味を添えて、かつ尊敬語にするには、まず尊敬語の形にした上で可能の形にする。
例:召し上がれる、お読みになれる、御利用になれる(まず、「召し上がる」「お読みになる」「御利用になる」の形にした上で、可能の形にする。)
(注) 「お(ご)…できる」は、後述のように謙譲語Ⅰ「お(ご)…する」の可能形であり、これを尊敬語の可能形として使うのは適切ではない。(例えば「全問正しくお答えできたら、賞品を進呈します。」は不適切で、「お答えになれたら」とするのが適切である。)
一般には、「お名前」「御住所」のように、「お」又は「御」を付ける。ただし、「お」「御」のなじまない語もあるので、注意を要する。(6の(1)参照。)
このほか、「御地(おんち)」「貴信」「玉稿(ぎょっこう)」のように、「御」「貴」「玉」を付けたり、「御高配」「御尊父(様)」「御令室(様)」のように、「御」とともに「高」「尊」「令」などを加えたりして、尊敬語として使うものがある。ただし、これらのほとんどは書き言葉専用である。
形容詞や形容動詞の場合は、語によっては「お忙しい」「御立派」のように、「お」「御」を付けて尊敬語にすることができる。
また、「お」「御」のなじまない語でも、「(指が)細くていらっしゃる」「積極的でいらっしゃる」のように、「…くていらっしゃる」「…でいらっしゃる」の形で尊敬語にすることができる。「お」「御」を付けられる語の場合は、「お忙しくていらっしゃる」「御立派でいらっしゃる」のように「お」「御」を付けた上で、「…くていらっしゃる」「…でいらっしゃる」の形と併用することもできる。
「名詞+だ」に相当する内容を尊敬語で述べる場合は、「先生は努力家でいらっしゃる」のように「名詞+でいらっしゃる」とする。
「訪ねる→伺う」のように特定の語形(特定形)による場合と、「お(ご)…する」(例:届ける→お届けする、案内する→御案内する)のように広くいろいろな語に適用できる一般的な語形(一般形)を使う場合とがある。
(注) 「存じ上げる」は、「存じ上げている(います、おります)」の形で、「知っている」の謙譲語Ⅰとして使う。ただし、否定の場合は、「存じ上げていない(いません、おりません)」とともに、「存じ上げない」「存じ上げません」も使われる。
(注) 「お(ご)…いただく」を作る上では、前掲「1(1)①」の【補足ア:「お(ご)…になる」を作る上での留意点】(25ページ)に準じる留意が必要である。
「お(ご)…する」「お(ご)…申し上げる」を作る上で留意すべき点は、次のとおりである。
これらの語は<向かう先>を立てる謙譲語Ⅰなので、<向かう先>の人物がある動詞に限って、これらの形を作ることができる。例えば「届ける」や「案内する」は<向かう先>の人物があるので、「お届けする(お届け申し上げる)」「御案内する(御案内申し上げる)」という形を作ることができるが、例えば「食べる」や「乗車する」は<向かう先>の人物が想定できないので、「お食べする(お食べ申し上げる)」「御乗車する(御乗車申し上げる)」という形を作ることはできない。
なお、<向かう先>の人物があっても、例えば「お憧れする(お憧れ申し上あこがげる)」「御賛成する(御賛成申し上げる)」とは言わない、というように、慣習上「お(ご)…する」「お(ご)…申し上げる」の形が作れない場合もある。
一般に、動詞が和語の場合は「届ける→お届けする」「誘う→お誘いする」のように「お…する」となり、漢語サ変動詞の場合は、「案内する→御案内する(御案内申し上げる)」「説明する→御説明する(御説明申し上げる)」のように「ご…する」となる。
動詞に可能の意味を添えて、かつ謙譲語Ⅰにするには、まず謙譲語Ⅰの形にした上で可能の形にする。
例:伺える・お届けできる・御報告できる(まず、「伺う」「お届けする」「御報告する」の形にした上で、可能の形にする。後二者の場合、「する」を「できる」に変えることで、可能の形になる)
一般には、「(先生への)お手紙」「(先生への)御説明」のように、「お」又は「御」を付ける。ただし、「お」「御」のなじまない語もあるので、注意を要する。(6の(1)を参照。)
このほか、「拝顔」「拝眉」のように、「拝」の付いた謙譲語Ⅰもある。
(注) 「拝見」「拝借」などは、「拝見する」「拝借する」のように動詞として使う方が一般的である。
(注) 「知る」意味の「存じる」は、「存じています(おります)」の形で、「知っている」の謙譲語Ⅱとして使う。ただし、否定の場合は、「存じていません(おりません)」とともに、「存じません」も使われる。
(注) 可能の意味を添える場合には、例えば「参れる」のように、まず、「参る」の形にした上で、可能の形にする(例えば、「申し訳ありません。明日は参れません。」など)。
(注)「…いたす」は「…する」の形をした動詞(サ変動詞)のみに適用可能である。
上述の「謙譲語Ⅰ」兼「謙譲語Ⅱ」の一般的な語形として「お(ご)…いたす」がある。
「愚見」「小社」「拙著」「弊社」のように、「愚」「小」「拙」「弊」を付けて、謙譲語Ⅱとして使うものがある。ほぼ、書き言葉専用である。
「です」「ます」を付ける上で留意を要する点は特にない。(「高いです。」のように形容詞に「です」を付けることについては抵抗を感じる人もあろうが、既にかなりの人が許容するようになってきている。特に「高いですね。」「高いですよ。」「高いですか。」などという形で使うことに抵抗を感じる人はほとんどいないであろう。)
「ございます」を形容詞に付ける場合の形の作り方は、次のとおりである。
「…aい」の場合 | 例:「たかい」→ | 「たこうございます」 |
「…iい」の場合 | 例:「おいしい」→ | 「おいしゅうございます」 |
「…uい」の場合 | 例:「かるい」→ | 「かるうございます」 |
「…oい」の場合 | 例:「おもい」→ | 「おもうございます」 |
(注)「…eい」という形の形容詞はない。
美化語のほとんどは名詞あるいは「名詞+する」型の動詞であり、一般に「お酒」「お料理(する)」のように、「お」を付ける。ただし、「お」のなじまない語もあるので、注意を要する。なお、一部には「御祝儀」のように、「御」による美化語もある。
「お」あるいは「御」を付けて敬語にする場合の「お」と「御」の使い分けは、「お+和語」「御+漢語」が原則である。
ただし、美化語の場合は、「お料理」「お化粧」など、漢語の前でも「お」が好まれる。また、美化語の場合以外にも、「お加減」「お元気」(いずれも尊敬語で、「お+漢語」の例)など、変則的な場合もあるので、注意を要する。
なお、以上は名詞・形容詞などの例を挙げたが、動詞の尊敬語の形「お(ご)…になる」「お(ご)…なさる」「お(ご)…くださる」、謙譲語Ⅰの形「お(ご)…する」「お(ご)…申し上げる」、「謙譲語Ⅰ」兼「謙譲語Ⅱ」の形「お(ご)…いたす」などを作る場合についても、「お」「御」の使い分けは、「お+和語」「御+漢語」が原則である。また、いずれの場合についても、語によっては「お」「御」のなじまないものもあるので、注意を要する。
一つの語について、同じ種類の敬語を二重に使ったものを「二重敬語」という。例えば、「お読みになられる」は、「読む」を「お読みになる」と尊敬語にした上で、更に尊敬語の「…れる」を加えたもので、二重敬語である。
「二重敬語」は、一般に適切ではないとされている。ただし、語によっては、習慣として定着しているものもある。
二つ(以上)の語をそれぞれ敬語にして、接続助詞「て」でつなげたものは、上で言う「二重敬語」ではない。このようなものを、ここでは「敬語連結」と呼ぶことにする。例えば、「お読みになっていらっしゃる」は、「読んでいる」の「読む」を「お読みになる」に、「いる」を「いらっしゃる」にしてつなげたものである。つまり、「読む」「いる」という二つの語をそれぞれ別々に敬語(この場合は尊敬語)にしてつなげたものなので、「二重敬語」には当たらず、「敬語連結」に当たる。
「敬語連結」は、多少の冗長感が生じる場合もあるが、個々の敬語の使い方が適切であり、かつ敬語同士の結び付きに意味的な不合理がない限りは、基本的に許容されるものである。
(例えば「先生は私の家に伺ってくださった。」「先生に私の家に伺っていただいた。」は、「先生が私の家を訪ねる」ことを謙譲語Ⅰ「伺う」で述べているため、「私」を立てることになる点が不適切であり、結果として「伺ってくださる」あるいは「伺っていただく」全体も不適切である。「隣の窓口で伺ってください。」のような「伺ってください」も、同様に、「隣の窓口」を立てることになるため、不適切である。)
(注) ただし、これらは、次のような限られた場合には、問題のない使い方となる。
①②では、「伺う」が<向かう先>の「先生」を立て、「くださる」あるいは「いただく」が「田中さん」や「鈴木さん」を立てている。また、「先生」に比べれば、「田中さん」や「鈴木さん」は、この文脈では「立てなくても失礼に当たらない人物」ととらえられている(例えば、①②の文を述べている人と「田中さん」や「鈴木さん」が、共に「先生」の指導を受けた間柄であるなど)、というような場合である。
このように、その行為の<向かう先>が「立てるべき人物」であって、かつ行為者が<向かう先>に比べれば「立てなくても失礼に当たらない人物」である、という条件を満たす場合に限っては、「伺ってくださる」「伺っていただく」などの形を使うことができる。
(例えば「先生は私を御案内してくださった。」「私は先生に御案内していただいた。」は、「先生が私を案内する」ことを謙譲語Ⅰ「御案内する」で述べているため、「私」を立てることになる点が不適切であり、結果として「御案内してくださる」あるいは「御案内していただく」全体も不適切である。「して」を削除して「御案内くださる」「御案内いただく」とすれば、「お(ご)…くださる」「お(ご)…いただく」という適切な敬語のパターンを満たすため[本節の1の(1)①、及び2の(1)①を参照(24ページ及び26ページ)。]、適切な敬語となる。「…ください」の場合についても同様である。)
(注) ただし、この場合についても、例えば、次のような限られた場合には、問題のない使い方となる。事情は、先の「伺ってくださる・伺っていただく」の場合と同様である。
例えば、「自分が先生の指導を受けた」という内容を「くださる」あるいは「いただく」を使って述べる場合は、次のいずれかの形を使う。
ここで「私」を表現しない場合は、次のようになる。
それぞれ、敬語でない形の「くれる」「もらう」に戻して考えれば、助詞が以上のようになるべきことは容易に理解できる。
これらの内容を述べるのに、次のように述べるのは不適切である。
確かに「先生が指導する」という内容であるため、上記のような述べ方をしたくなる心理が働くところではあるが、上の文全体の動詞「いただく」は「もらう、受ける」意味であるから、指導を受ける側「私」を主語として述べ、「先生」の後には「に」を付けなければならないことになる。「私」が表現されない場合でも、この事情は変わらない。「先生が(は)指導していただいた/御指導いただいた。」と述べれば、「先生」が別の人物(例えば「先生の恩師」)の指導を受けたことになってしまう。